「自分を好きになろう」のプレッシャー
この記事を読みました。
自分の将来のためにどうしていくかを考えるとき、「自分を肯定する」「自分を好きになる」といったことを目指そうとする人が多くいます。自分を見つめ、自分の力だけで生きやすさを得ようとするのでしょうが、おすすめしません。(中略)
たいてい自分はいやなものです。でも、自分を認められず嫌悪するところから、エネルギーが生まれることもあるのです。それに自分を好きになったり自己肯定感を得ようとしたりすることは、「自分がいやな自分を否定する」ことになりはしませんか。
「自分を好きになろう」という大人の善意が、悩む子供を追い詰めてしまう
(プレジデントオンラインより)
基本的にはこの記事と同様に、私も、
自己肯定感を無理矢理高めなくていいと私も思っています。
自分を好きになろうなんて言われたってなれているんだったら、とっくになれている。
そうは思えないから苦労している・・・ですよね?
そうなんです。自分って嫌なところが多いです。
自分のこと、好きって思うどころか、嫌いだし、そんな自分がうまく人と関わり合いなんてもてないし、もてないから自分のこと嫌いだし・・・
と、いっぱい自分のこと否定しちゃいますよね?
なのに、自己肯定感を高めよう!とがんばりすぎることは、「嫌なところだらけと思っている自分を否定」して、(抑え込んで)、自分をよしとしようとするので、とてもしんどいのです。
まるで風船を上から押さえつけると反発があるようなもので、下からふつふつと、自己否定の感情がうごめいて苦しくなります。
本当の自己肯定感とは、
嫌なところがいっぱいある自分でよしとできるか?
だと思います。
自分のことを嫌だと思っている自分をも肯定する、ということですよね。
生きづらさをずっと抱えてきた人も多いはず
引用したプレジデント記事では、不登校をテーマにしています。
私自身は、不登校ではありませんでしたが、幼稚園の時から、本当に行くのが嫌で嫌で。
幼稚園や学校が好きと思ったこと、行くのが楽しみと思ったことは一度もない。友達を作るのも苦手。
義務感だけで行っていました。
うちは母が専業主婦でずっと家にいたのですが、母が終日いないとわかっている人は勝手に学校を休んだりしていました。
学校や集団の中での生きずらさをずっと抱えてきました。
というよりも、そもそも人間として生きていくつらさかな・・・・。
小さいときから、生きるって、身体を持っているってなんてしんどいんだろうって思ってましたから。今でいう、HSPとか宇宙人とかだと思いますが、私みたいな子いっぱいいるんじゃないかな。
学校へ不登校な理由は学校が、だけじゃなくて、そもそもの生きづらさを抱えている子もいるはず。
そんな自分をわかってくれる人がだれかいたら、それだけでも違うと思うんです。
それがカウンセラーでもいいし、それ以外でもいいし。自分自身ができないかわりに、誰かが自分を受容してくれたらいい。
もちろん、最終的には自分自身が受容しなきゃいけないんだけど、
こんなクソだと思っている自分に、誰かがノージャッジで接して、受け止めてくれるのなら、それだけでいいんだと思うんです。
生きずらさを抱えている方、自己価値、自己肯定感について悩んでいる方、
そして、はやりの「自己肯定感ブーム」にうんざりの方、もちろん大人の方も、自己肯定感の高低(大小)以外に、自分が苦しんでいる原因を見つけて取り組む方がいいと思います。
自己肯定感と幸福度は必ずしも一致しない
また、自己肯定感が高いからといって、必ずしも、幸福感を感じられているとは限らないと思っています。
通常は、自己肯定感・自己価値が低いと、ネガティブな事象を引き寄せる。
周りからも軽んじられる。扱いが悪い。
だから、自己肯定感・自己価値を高めよう!と言われることがほとんどですよね?
これはカウンセリングの現場でもよく用いられる原因分析と提案です。私もよくお話をしてきました。
実際に、自己肯定感・自己価値とその方の幸福度が関連していることもありますし、高めて損はないし、高めた方がいいと思います。
高めることで手に入る幸せもあります。
が、自己肯定感が高くても、幸せ(な結果)ではないということが多々ある、と思うのです。
これってなぜなんでしょうか?
十分条件だけど必要条件ではない
昔、数学で習った必要条件・十分条件を使うと
自己肯定感が高いことは、幸せだと感じることの必要条件ではなく、十分条件である
ということだと思うのです。
たとえば、
(私って人からないがしろにされてもいいぐらい)
容量の悪い人だ
愛想のない人だ
等と自分のことをそう思っていたら、実際に職場で、パワハラにあったり、仕事をいつも押し付けられる
等の目にあうことはあります。
なので、こういう自分に対するネガティブな判断は外していく(緩めていく)方がいいとは思います。
が、じゃあ
私は容量がよく(仕事ができ)
愛想がいい(誰とでもうまく合わせられる)
と思っているからといって、パワハラや仕事を押し付けられるという目に合わないかというと必ずしもそうとは言えません。
なぜかそういう目にあってしまう、そんな人はたくさんいます。
原因は他にある、と言うことですよね。
May.Jさんの場合
ちょうど歌手のMay.Jさんのインタビュー記事を読みました。
https://www.oricon.co.jp/special/56792/
映画『アナと雪の女王』主題歌から7年。社会現象的な大ヒットは称賛だけでなく、多くの誹謗中傷の声も運んできた。「この傷は一生癒えないかもしれない」と振り返りつつも、新たな表現への挑戦に至った境地を聞いた。
この記事にあるように、あの大ヒット曲を抜群の歌唱力で披露しながらも、なぜか誹謗中傷されてしまったMay.Jさん。
コメントを見ると、
「May.Jさんの、歌うまいでしょ?アピールが気になる」
とか
「うまいけどハートに響かない」
という意見が多いのですが、なんとなくわかる気がします。
May.Jさんご自身は、アピってる!鼻につく!と、思われているなんて想像もしてなかっただろうし、歌が上手くないなら叩かれるのもわかるけど、うまくて何がダメなんだろう?
と理解に苦しむところかもしれません、
彼女自身も自分は歌がうまい、という自己肯定感あるはず。
けど、叩かれて、心の傷までできたというぐらいだったのなら、売れても満足できなかったのではないかと思います。
やはり
自己肯定感と幸福度は必ずしも比例しない、
んですよね。
幸福度を下げているものは他にある
May.Jさんの例でわかるように、幸福度を下げているものは自己肯定感とは違うところにある
としたら、
自己肯定感を高める努力をしても、幸福感を感じられない
ことがあります。
ここが「自己肯定感高めようブーム」のワナだと思います。
それよりも、
何が幸福度を下げているのか?そこの見極めが大事なのだと思います。
May.Jさんの場合だと、聴衆のハートに響く歌にしようとすると、
自分自身のハートを響かせる=自分の感情とつながる、ことが必要になります。
感情は共鳴するからです。
でも、上記の記事を読むと
もっと気楽な自分をさらけ出す場を持つことで・・・
とあり、実は自然体のMay.Jさんじゃなかったとしたら、繕った感じ、ご自身が感じているニセモノ感が共鳴し、周りに伝わります。
また、
ストリーミングで洋楽と邦楽の垣根はどんどんなくなってきていますが、私もBTSやBLACKPINKといったK-POPアーティストのように、日本語と英語の歌詞が違和感なく混ざった楽曲でMay J.の音楽性を確立していきたいです。
とありました。
日英の歌詞が混ざることが彼女の音楽性の確立につながるのかな?
それは表面的なことではないのかな?
と感じました。
彼女が自分自身の本質とつながっておらず、本当の自分を表現できていないならば、できるようになった方がいいと思います。
そして、彼女の感情をオープンにすること。
そして、「歌の上手な私を見せたい!見て!」というニーズを聴衆に満たしてもらおうとするのではなく、目の前にいる人に自分の感情を表現するのか?どう歌に載せていくのか?何を与えていくのか?そのことの方が大事な気がします。
だって、あれだけ上手!
でも、上手だけじゃない彼女を観たい、とみんなが思っているんじゃないでしょうか?
あなたの幸せ度・満足度を下げている本当の原因、苦しみを作り出している原因を探りませんか?
自己肯定感ブームに踊らされるのをやめて、本当の自分を見つけに行きませんか?
自分の本質とつながれば、生きづらさも、少しは改善できるのではないかと思っています。
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