「事実」と「真実」は違う、というお話。

こんにちは!

時々、セッションの中でお話する例を。

「事実」と「真実」は違う

「事実」と「真実」って、

言葉としては似ているし、

一般的には同義で使うこともありますよね。

「本当の事実」を「真実」という意味で使ったりもしますよね。

 

竹田恒泰さんが以前、テレビ番組でおっしゃっていたのですが、

竹田恒泰さん

古事記では、
神から人間が生まれ、
それが天皇の祖先であると記されている。

科学的に考えたら、
そんなのはありえない。

(科学的には)事実ではないが、
その話を信じる人にとっては
真実になる。

マリア様の受胎も同様だ。

 

この意味では、
「真実」は「実」(信じる事実、信じている事実)
と書いてもいいのかもと思ったりします。

 

 

自分の責任において何を真実にするか?

私個人は、
どんなことであっても、
自分が信じるものが
「真実」でいいと思っています。

他人がなんといおうが、
自分はそう思う。

なら、それってありではないかと思うのです。

自分の責任において何を信じるかは
自由ですもんね。

 

例えば、

極端な例ですけど、

目の前で、パートナーが浮気相手とセックスしている光景を見ても、

ちょっと変わった
ヨガやマッサージやってるんだ

と、思えるなら、

それも真実だ、
ということです。

 

世の多くの人が、

あんな男はやめておけ

と言うような人であっても、

あんないい人はいない
と、疑いなく思えるなら、
(信実)真実のパートナーになります。

 

でも、心のどこかで、

いい人なんだけど、
どうも素行が信じられない、

となると、
信じられない、パートナー
つまり(信実)真実ではない、ということになります。

 

信じよう、信じよう、

としている時点で

信じてないじゃん、

と言うことにもなりますが。

 

「真実」の時は、心が軽やか

結局、

自分が何を信じる、

真実にするのか

それも自由

という身も蓋もないようなお話になりましたが(;’∀’)

 

おそらく、

自分の真実であるときと言うのは、

心が軽やかでストレスもないんじゃないでしょうか?

「真実だと思おうとしているとき」
って、

信じられないからそうするわけで。

 

ストレスがあるなら、

真実じゃないし、
信実じゃない

そんな気がしますが、

どうでしょうか?