こんにちは。
昨日のブログに書いた「死」と切り離せないという点について。
例えば、離婚問題、うまくいかない男女関係も、それも既存の関係を終わらせる一種の死です。
職場の人間関係、友人関係、ビジネスなどの悩み、それを終わらせるのも一つの死。
それらの問題を乗り越えていくために自分を見つめなおし、自分を変えていくのも、古い自分とのお別れだから、やっぱり一つの死。
病気になったり、体調が悪くなるのも、今までの健康な状態から自分の身体の細胞や状態ではなくなるのだから、これも一つの死。
あらゆる終わり=「死」があると言っていいと思うのです。
となると、誰もが大小さまざまな「死」を経験していると思います。
ただ、
私の場合、なぜか失ったもの=「死」んだものがあまりに多い人生なのです。
でも、そこからいつもなぜか再生、復活しているのです。
実は、私は物心ついたころから。
自覚あるのは幼稚園ぐらいからですが、
「生きていくのがつらい」「肉体を持っているのがつらい」
と思っていました。
こんな園児どうよ?と思いませんか?
長生きするのがつらいと思っていたし、
生きていてよかったと思ったことはありませんでした。
ちょうどノストラダムスの大予言がはやった小学生ぐらいのころには、
私は30歳ぐらいには死ぬと思っていました。
大学の卒業論文も「日本人の死生観」というタイトルだし、
特に「自殺(自死)」である、乃木希典将軍夫妻の死、特攻隊などをテーマにしました。
不真面目すぎる学生だったのですが、
卒論の発表会で、
ある教授からは
「あなたって、いい加減な人だと思ってたけど、こんなことをテーマにするなんて,根がとてもまじめな人なんだね」
とその方らしいお褒めの言葉?をいただきました。
まじめかどうかというより、私の中では、いつも「死」を考える人生だったのです。
それぐらい、いつも「死」が隣にいたのです。
今回、私にとって身近な存在では初めて父が肉体的な「死」を迎えました。
昔は、正直、立ち直れないぐらいのショックを受けるんじゃないかと思っていました。
そうではありませんでした。
父の年齢が年齢ということもありますが、
それ以上に、私が自分の人生で、たくさん失ってきた~死を経験してきたせいのような気もするのです。
父が亡くなるまでは、毎日泣いてばかりでした。
でも、いざ実際に臨終という場面になった時、
家族のだれよりも冷静で、
訪問看護センターに電話したり、
千葉の妹にLINEビデオ通話でつないだり、
途中でトイレに行きたくなって、20秒で戻って看取りの続きをやったり。
↑自分でもこんな時にトイレに行くなよと思ったのですが、
実は排尿障害で、尿意のリハビリ中だったので
ガマンしなかったのです。
昨日書いたように、まさに 今際の際の場面を私だけが見てしまった。
けして楽ではないのですが、様々な死を経験してきた私は、
どうやら「死」を見届ける役目?らしきものがあるようなのです。
そして、一つの死を迎えて再生・再誕生に向かう。
カウンセリングで言えば、古い自分が死んで、新しい自分になる。
それによって、人間関係が変わったり、仕事のこなし方がかわったり、体の状態が変化していくと思うのです。
アメブロを読むと多いのは
「キラキラ輝く人生」
「××××美人になる」
「思い通りの人生にする!」
そういうキャッチフレーズのセラピストが多いと思います。
私も書いていないわけではないのですが(笑)
誰もが簡単にそんな人生にできるわけでもなく、
一度は「死」の苦しみ、失うつらさを感じることも多くあると思います。
私が何か役に立てるのかはわかりませんが、
そこに寄り添える存在でありたい。
その「死」の向こうには、新しい何かが待っている。
そこを信じて見届けられるセラピスト
でありたい。
そう思いを新たにしています。
※これがもはやセラピストという名称が適切なのかはわからないけど・・・
ちなみに、父については、肉体は存在していないけど、
「父は、いると言えばいる。いないと言えばいない」
そんな心境です。
スピリチュアルな話が嫌いな母でも珍しく、「私もそう思う」と言っていました。
魂の永続性、ってこういうことなのかもしれません。